2007年5月 – 東京 – 2007年問題と言えば「団塊の世代」退職に伴ってノウハウを持った方が職場からいなくなってしまうという意味で使われます。が、ここでは理工系職場の世界が如何にすごいことになっているのか、大学生のデータで示そうと思います。
このコラムをお読みになる方がいかなる年代に属するのかわかりませんので、退屈かもしれませんがまずは基本的な内容から整理していきます。最初に次の図をご覧ください。
大学の「みかけの入試倍率」は、年代別に見ると5倍から9倍に至るまで大きく変化しています。入試倍率が上がる理由は4つあります。すなわち、1)複数受験する人が増えた、2)受験人口が増大した、3)入学定員が減少した、4)受験先の人気が高まった、です。
図を見ますと、複数受験が可能であった時期とそうではない時期とでは大きく入試倍率が異なります。例えば中曽根政権下で共通一次試験を改革し併願可能とした1987年がそれです。ただし、複数受験が可能というのは、見かけの入試倍率を押し上げますが本質的な入試倍率を上げることにはなりません。入学辞退者が続出するからです。また入試科目の数などは、確かに受験生にとっては大変かもしれませんが、本質的な難しさとは何ら関係がありません。
そこで、「みかけの入試倍率」ではなく、本当の入試難易度を測るために「潜在入試倍率」というものを定義してみます。潜在入試倍率とは、18歳人口を大学入学者数で割った数値のことで、仮に18歳になった人すべてが大学入学を希望したとすれば大学の入試倍率がいくらになるのかを示すものです。
こうしてみますと、1991年以降どんどん入試が簡単になってきたことがわかります。1990年の約4倍から最近は2倍あたりまで低下するという超楽勝ぶり。そう考えると最初のベビーブーム世代は入試倍率6倍ですから苦労してますね。そして入試倍率と反比例する形で大学生の質が低下したと理解すれば、同じ大学を出てはいても「昔の京大工学部化学科はこんなではなかった」、と仰る退職間際のオジサンの優秀さも理解できるというものです。なお、最初から大学入試に参加しないという意味でのこの間の普通科高校進学率も大学入試に影響を与えてはおりますが、その種の問題は図で示した1970年以降に関する限り軽微です(図が煩雑になるため数字は省略しました)。
ではなぜ1991年以降の入試が全体的に簡単になってきたのか。それは、2)受験人口と、3)入学定員の、両方が関係しています。先に受験人口から見ますと、18歳人口が減少に転じたのは1993年からであり、今では2割方大学入試の競争相手がいなくなった状況にあります。これは大きい。
大学入学定員については次の図をご覧ください。
趨勢的に大学入学定員は増えていますが、特に1985年を境にして各段に増員されたことがわかります。なんと実に2倍です。これら2つの要因が大学入試がやさしくなった理由であり、大学生、ひいては大学卒業生の質低下をもたらしたと考えれば間違ってないと思います。もちろん、教員の質が低下したとか、学習指導要領がいけないとか世間ではいろいろと言われておりますけれども、やはり人口要因は無視できない。いわゆる「分数が出来ない大学生」問題の最大の容疑者はこれでしょう。
さて、今度は学部別に見ていきましょう。
グラフの中で理工系と定義したのは、理学部、工学部、理工学部の合計です。また経済系とは、経済学部、商学部、経営学部の合計です。図が示すのは1997年あたりを境にして、理工系、経済系ともに入学定員が緩やかな減少傾向にあることです。それはなぜかと言えば、特に土木系や農業系のような不人気学科が、「環境…」など接頭辞を付けた洗練された名称に看板替えしたからです。経済系も同じで「経営…」とか「国際…」などが流行しています。
こうした看板替えの流行自体は本題とは関係ありません。ここでは、経済系と理工系の入学定員はほぼ同じであること、そしてどちらにも分類できない学部がどんどん増えたおかげで大学入学定員は1980年代初の2倍近くまで増えたことを覚えておいてください。
次に学部別の大学入試志願者数を見ることにします。
1986年を境にして一気に理工系離れが進んだことが明らかです。「でも1991年以降は経済系人気も落ちて最近は理工系離れも元に戻ってるじゃないか」と思われた方、早とちりです。次の図を見てください。
なんと今や私立大学の4割が定員割れする時代。大学入試自体の容易化が進行したおかげで、1990年代の後半になると「誰でも入学できる」とは言わないにしても全学部で入試倍率の低下傾向がみられるというのが真相。
もちろん上位校は別であろうけれども、母集団全体で見れば学生のクオリティに関わらず難易度の高い学部が消えつつあるというのが実態に近いのです(なおこの何年か医薬系に人気が集まる「医学部シフト」要因があるが、統計上は医薬系ブームも昨年度から沈静化傾向にある模様)。
次の図のように入試倍率に換算してみますと理工系離れはさらに露骨になります。
1990年代前半の経済系人気がさらによくわかります。逆に言えば、人気の受験漫画”ドラゴン桜”で「東大を目指すならば理Ⅰを狙えば簡単だ」と言っているのは本当だったのです(先日最終回になり主人公の教え子のひとりは東大理Ⅰに見事合格)。
私は1986年に大学を卒業したので当時の状況はよく覚えています。経済系がサークルで遊びまくっている一方で(本当かどうかはともかくとしてそう言われていた)、理工系は授業と実験に勤しまなければならない(これはかなり真実)。会社訪問(私が出た学科の場合は今ほどではないが売り手市場で当時は4年生の春に就活をやりました)で日立の研究所(山奥)に勤める先輩(人工知能を研究中)を訪ねれば「お前ここで年に何人自殺してるか知ってるか」と驚かされ、NECでは「ここで難しいソフトウェアやマイクロプロセッサ作ったって(=当時NECはVシリーズという名前の米Intel社製互換CPUを独自開発し売っていた)グループ企業の中では評価されないんだ」と愚痴を聞き、「メーカーは男ばかりだから彼女いるなら離すなよ」と妙なアドバイスをされ(府中や三田ばかりでなく日立市でも同じ話になった)、富士通は「電機労連系=給料低い」しDRAMばかりで(異端な人は相手にされない雰囲気)面白くなさそうで(課長昇進試験のことは当時から有名だった)皆敬遠しているから最初から行かず、日本IBMに行けば「Think」のロゴ(当時のキャッチコピー)入りクリアフォルダをもらえて嬉しかったが六本木も箱崎も所詮営業の会社だとわかってがっかり「行くなら博士とってから大和の基礎研だよね」と学生どうし話し合い(私の学科から就職する人は修士か博士をとって研究職が普通であって学士で卒業するのは少数派)、リコーの中央研究所は「将来なくなってしまうかも」と思って敬遠し(あの放射状の机は当時からあって中央研究所は結局今でも存在している)、ソニーにも多少心が動いたが(一緒にスキーに行ったら開発中のビデオカメラもちろん未発売品をゲレンデに持ってきた先輩がいたほど自由な雰囲気)でも「危ない」と思った。変わったところではヤマハ(昔はパソコンも作っていたしMIDIは当時よりも古い)は就職した先輩も会社も素晴らしかったが浜松は遠すぎ、警察庁(知られざる東大情報科学科卒業生の有力就職先で映画「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」に登場する監視モニターシステムC.A.R.A.S.のモデルか)に行った先輩がまぶしく見えたが「所詮は技官」と思い...といった状況。これだけ正直者のリクルーター(ネットが普及する以前の理工系の人は一般に正直で小心者だった)が教えてくれれば相当な覚悟がない限りどんなに勧誘されようがメーカーには行きたくなくなる。それで「自分には大学院よりも異分野で経験積んだ方が向いていそうだ」と考えたのが就職活動を始めたきっかけだったと思い直し(私の場合はリクルートG8ビルでのアルバイト=リクルート社員の方ならわかると思うが館内放送があってバンザイする奴です、が原体験となって学科では珍しい就活マニアになった)、「君、いい加減にして大学院に入りなさい」と言う先生の反対(今では大学院に行った方が良かったのかもと思い直して感謝してますが当時どれほど反対されたか何人の先生から反対されたかご想像ください!)を押し切って銀行や商社を会社訪問してみれば(商社と生保をそれぞれ2社訪問してみたが私が優秀でないせいか拘束されなかった)、体育会系と国家公務員受験者を優遇する雰囲気ありありで嫌だったが(その翌年リクルーターとして真相を知ることになる)、世間知らずなので拘束にあって面倒になりそのまま就職を決めてしまった(このあたりが文系の皆さんと違うところ)。そうしたら文科系の友人から「お前よくあんなきついところにしたな」と言われて(当時は同じようにひどい言われ方をした証券会社が別にあった)、「しまった」と思いシュンとなったものの(もう遅い)、「日立にするくらいならいいや」と自分を納得させた(その頃の私は就活は押さえとし最終的に大学院進学と天秤にかけるという甘い作戦を考えていたから多少不満な先で内定してもあきらめがついた)。それで大学4年生の夏休みに入り大学院の入試勉強も面倒になり、内定先の銀行で時々集まりがあって供される食事が「学生控室の冷蔵庫にある赤札堂(弥生門から徒歩10分)で買った安物ワインプラスチックカップ入りとは大きな違いだなあ」と学士卒業&就職に決めてしまう。...回想すればこんな感じでした。当時はバブルに向かって駆け上がろうという時期であり、「マル金、マル貧(ビ)」が流行語になっているくらい拝金志向が強く、「三高」(=高身長高学歴高収入)と言って女性にもてるかどうかも(これから就職する20代としては重要な要素)収入次第と思われていました。いきおい、理工系卒メーカー入社と言えば同情されていた。逆に理工系で東京電力(彼が手配してくれたおかげでこれだけたくさん会社訪問できたし電中研の話も聞けた)や東京ガス(それで浜松町ものぞいてみました)を選んだ人は自信に満ち溢れて見えました。
もちろん20年後の今から振り返れば、当時は青臭い考え方をしたものだと思うし、多くの予想ははずれています。が、これだけの逆風下で1990年代前半以降に理工系を選んだ方は大したものだと証言できるでしょう。いずれにしても優秀な学生は理工系から経済系に流れた。それも奔流となって。それは銀行が理系大量採用を開始し、共通一次試験が国立大学併願可能に変更された1988年から起きた。一見すれば18歳人口減と大学入学定員増によって隠蔽されてはいるけれど現在もそのトレンドは続いている。
さて、最後の図「大学院修士課程の入学者数」をご覧ください。
国の大学院生倍増化計画を受けて、先に見た大学の比ではない変化が大学院に起きた。今や1980年代前半の実に4倍の人員が大学院に流れこみ、院生の質が大幅に劣化しているという事実。逆に言えばかっての修士や博士のクオリティは素晴らしいものだったのかも。
俗にマネーロンダリングにかけて「学歴ロンダリング」という言葉があって、東大に入るのは難しくても東大の大学院に入るのは簡単だから、最終学歴をカッコよくしたければ大学院を目指しなさいという意味で使います。企業の人事部がそんな計略に引っ掛かるはずがなく、まるでワインのビンテージ物のように「君学士を取った大学はどちら?」「学士取得年はいつ?」と聞いては修士や博士をふるいにかけている。そんな現実は報道されないで、やれ「博士課程出身者を企業は評価すべきだ」などという馬鹿な意見が横行しているわけです。
まとめましょう。
- 国内の同じ大学から定期採用している企業の場合、学生全般の質低下が進んだために若年層の質が近年大きく低下したと考えられる。
- この傾向は理工系、そして大学院から定期採用する企業の場合、より強く影響が現われていると思われる。
- 経済系を中心に採用し、配置転換等で採用人員の目標シフトを誘導できた企業は、上記変化の悪影響を一応回避できている可能性がある。
このコラムは日本の技術系の現在および将来像というテーマでしたが、様々な推論を引き出すことが可能であると思います。例えば「加熱する中学受験って意味あるの」のような推論ですが本題からはずれるのでやめておきます。
以下はもう少し踏み込んだ本筋の仮説です。
- 硬直的な国内採用にこだわってきた企業、特に理工系を多く採用する企業では、持続的な人材の質低下により社内に非効率な経済を温存しているのではないか。そして役所ならばともかく民間企業なんだから内在する非効率経済が長く持つとは思えない。
- 伝統的国内企業のソフトウェア子会社には大量のエンジニアが在籍する。ユーザーである金融機関のシステム部門には、インドのインフォシスなどからエンジニアがどんどん派遣されてきている。西葛西のインド料理店は充実している。
- ということはIT系エンジニアの伝統的な大量就職先企業においては、この先厳しいリストラが待っているのではないか。代わりに外国人採用拡大が予想される。労組が抵抗するならば、最終的に経営破綻まであるかもしれない。
いかがでしょうか。なお、こんな感想を持っているのは私だけではない。最近も「大手ソフトウェア会社の経営トップの方と話をしていると、『このままでは日本のソフトウェア産業は構造不況に陥るんじゃないか』という危機感を持っている人が多い。」(出所: あらためて衝撃―日本のソフト産業を統計分析する)という記事がありました。大学の同窓会に行ったところ、今もコンピュータメーカーに勤めている同窓生のところでは業績が苦しくなってライバル社との合弁会社を作ることになり、転籍させられてみれば鬱状態の人だらけ。出社するだけで上司から喜ばれる始末...なんていう話を皆さんも身の回りで聞きませんか。